山形城
別名: 霞ヶ城、吉字城
築城年代: 延文2年(1357)文禄元年(1592)元和9年(1623)
築城者: 斯波 兼頼、(しば かねより)最上義光、鳥居忠政、
城地種類: 平城
文化財史跡区分: 国指定史跡
山形城登城 百名城No.10 2010.12.4
週末2日間で山形県、福島県を中心に百名城6城制覇の旅に出かけました。
まずはここ、山形城へ。
山形城は、最上氏の祖斯波兼頼が、延文2年(1357)に築城したと伝えられています。兼頼の子孫は、その後最上氏を称して、代々居城したらしい。最上氏11代当主義光の代に、関ヶ原合戦の戦功により、57万石の大々名となり、実質100万石の城下町として山形は繁栄しました。
山形蔵王IC
自宅からここまで距離にして約440㎞、やってきました山形に。
山形城はこのICから20分程で到着します。
東大手門
駐車場に車を停め、大手門からいざ登城!
当初予想していたよりも道幅や建物が大きくしっかりとしていました。
平成3年、櫓門・多門櫓・高麗門・土塀を備えた山形城二ノ丸の正門を、史実に従い日本古来の建築様式により木造建で忠実に復元。
東大手門枡形
なぜ、山形城が別名『霞城』と呼ばれるようになったのか?
それは、関ヶ原の合戦の頃に直江兼続(上杉軍)が富神山の麓からお城を十日間見ていたが、霞がかかって何も見えなかったことから『霞城』と呼ばれ、現在もそれが定着していて『霞城公園』
と呼ばれているらしいです。
最上義光像
最上勢と伊達勢は追撃に出たため、富神山付近では大激戦となり、自ら先頭に立って戦った最上義光の兜には、銃弾が当たったと言う話が今に伝えられています。
最上義光像(2)
こちらの銅像ですが、全国的に見てもかなりよく出来ていると思います。
この今にも動き出しそうな程の躍動感と馬の筋肉の質感は、なかなか
出せるものではないと思います。(一言で言い表すとカッコイイ!)
本丸一文字門
この頃はまだ復元作業は始まっておらず、写真のような状態でした。
2014年(平成26年)に高麗門と枡形土塀が復原されました。
本丸大手橋
明治時代に駐屯した陸軍によって埋められてしまった本丸の堀、
登城当時はここまで復元されていました。
国指定なので予想で復元できない難しさはありますが、今後の
復元、修復に期待します。
大手橋からの堀
緑がキレイな堀です、少しずつではありますが城の復元が
進んでいるみたいで嬉しい。
本丸にある石垣
隅石は算木積、間詰を施した打込み接の石垣です。
なぜかこの形の石垣を見ると見入ってしまします。(石垣が好きなので)
本丸石垣(2)
石垣の角度、上部の反り具合といい頑張って積んだ感じが伝わってきます。
この調子で復元作業を進めていってほしいと思います。
スタンプ押印
スタンプの状態: " やや良 " 難しい赤色ではあるが、まあまあ綺麗に押せました。
山形城
見所ポイント: 本丸一文字門石垣、二の丸東大手門、堀、土塁、等
駐車場: 山形城専用無料Pアリ。(200台以上可)
総評:完全再建された二の丸東大手門は、高麗門・櫓門・続櫓などからなるもので、
近世城郭の枡形門の典型的な姿を見ることができる。
本丸一文字門の復元整備された高石垣ともども、かつての山形城の威容をしのぶ
事ができる。と、手元の資料に書いてあります、まったくその通りです。
最上義光はよく悪役として色々な物語に登場します、能力があったからこそ
その実力に敵は恐れ悪評を囁かれたのではないか?と自分は思いました。
今後、少しづつでも着実に復元作業が進んでいくことを望みます。