美濃金山城登城! 続日本100名城 18城目 破城の痕跡からみる織豊系城郭の姿~(其の一)
美濃金山城
別名: 烏峰城(うほう じょう)兼山城
城地種類: 山城
築城年代: 天文6年(1537)
築城者: 斉藤妙春(さいとう みょうしゅん)
主な関連施設: 可児市観光交流館(スタンプ設置場所)
文化財史跡区分: 国指定史跡
出丸にある石垣
2017年4月6日の「城の日」に財団法人日本城郭協会が続100名城を発表
しました。岐阜県からは苗木城、郡上八幡城、美濃金山城と 大垣城 が
選ばれました。スタンプを押したうえで登城数をカウントしたいと思い
ます、今回の岐阜県の旅最後は美濃金山城として、登城 18城目とします。
美濃金山城概要:
天文6年(1537)、兼山の地に斉藤妙春(正義)という人が烏峰城という名の城を築いたのがはじまりとされています。妙春がライバルに謀殺されると永禄8年(1565)には織田信長の家臣である森可成が城主となり、烏峰城は金山城へと名前を変更しました。
慶長5年(1600)に犬山城主であった石川光吉が城主となりましたが、その翌年に建物等は解体され、城は破却となりました。
可児市観光交流館
まず、城の縄張図とパンフレット、そしてスタンプをゲットするため
にこちらの「可児市観光交流館」へと向かいました。
こんな感じで館内には沢山の甲冑が展示してあります。
イクササイズ?
ある看板に目がとまった!「イクササイズ」と書かれたこちらの看板。
「甲冑×城攻め=身体と頭脳のエクササイズ
もっとも平和で、健康的な城攻め」と書かれています、なんて斬新な
エクササイズなんだと感心する。(この発想が素晴らしい)
駐車場
先程の可児市観光交流館から距離にして約1.5km、車で10分位でこちら
の駐車場に着きます。(出丸と呼ばれる曲輪がPになっています)
この出丸の部分は現在駐車場になっています。
真新しい幟が風になびいて雰囲気を出しています。
この出丸に関する説明看板があったので見てみましょう。
と、この様になっています。
ここで一つ気になったのが、「石塁で築造」と書いてある部分です。
石垣ではなく、石塁という事は " 裏込め " が無いという事でしょうか?
たしかに唐沢山城にも見た目は野面積の石垣でも、裏込めの無い石塁
がありましたが…。
貴重な石積
説明看板によると当時の石積で遺構という事らしい。
この石の裏部分を見てみたい…。
野面積
これぞ野面積と言わんばかりの、この荒々しくごつごつした感じが
たまりません。
登城口
駐車場から北東へと進むとこちらの登城口が現れます。
三の丸門跡
門の礎石という事は、この門は掘立方式で作られた戦国初期の建物では
なく、わりと戦国後期に作られた門という事でしょうか?
二の丸西面石垣
こちらの石垣は破城の際に、天端と隅石を破壊し崩しました。
破壊される前、隅石の部分は算木積になっていたとされています。
位置的にはこちらになります、現地にはこの様に現在位置を分かり易く
把握する事ができる看板が存在するのでとても助かります。
三の丸虎口
三方向を石垣で囲まれていた強固な虎口となります。
向かって左側の岩盤を削って虎口の壁とし、防御としています。
説明看板があるので見てみましょう。
この看板にある右側の高く築かれた曲輪とは、三の丸北曲輪の事です。
こちらが三の丸虎口の現在位置となります。
かつて城下町からの登城路があったのではないかとされている道となり
ます。
三の丸北曲輪跡
写真では分かりにくいですが、多くの石材が散在していました。
二の丸跡
ここにあった礎石の形状から、渡り廊下のある建物があったとされて
います。
二の丸物見櫓跡
看板にはここから色々と見えると書いてありますが、雑木が生い茂り
何もみえません。
枡形虎口
三方向を石垣に囲まれていたとされている強固な防御を誇る虎口となり
ます。ここには門の礎石があり、往時立派な門があった事がうかがえます。
説明看板
現状から往時の姿を想像するには妄想力(想像力)が必要となります、
この妄想(想像)というのがどうにも苦手で、毎回苦労を強いられます。
今回はここまで、其の二へつづく。
美濃金山城
見所ポイント: 本丸、二の丸、三の丸、出丸、石垣、土塁、切岸、等。
駐車場: 出丸跡駐車場(20台程度)
中間報告:ここ美濃金山城は東西に木曽川が流れ、南側に中山道が通る交通の要所に築かれました。主郭は総石垣造りであったとされ、まさに織豊系城郭の城郭体系を垣間見る事ができます。また多くの曲輪で建物の礎石が確認され、瓦などの遺物が出土しました。破城の際に多くの遺構が破壊されてしまったここ金山城ですが、その破城の過程や
方法等を知るうえでとても貴重な歴史文化遺産となっています。