宇陀松山城
別名: 秋山城
城地種類: 山城
築城年代: 南北朝期
築城者: 秋山氏
主な関連施設: まちづくりセンター千軒舎
文化財史跡区分: 国指定史跡
南西虎口跡
2017年4月6日の「城の日」に財団法人日本城郭協会が続100名城を発表
しました。奈良県からは大和郡山城と " 宇陀松山城 " が選ばれました。
続100名城は幾つか登城済みですが、スタンプを押したうえで登城数を
カウントしたいと思います、今回行った宇陀松山城を登城 11城目とします。
宇陀松山城概要:
南北朝から戦国期にかけて秋山氏が築いた山城で、秋山氏が退去したあと豊臣家配下の大名の居城として改修・整備が行われ近世城郭に近い形の城になりました。その後も城主は入れ替わり、元和元年(1615)大阪の陣後、当時城主であった福島氏が改易となり城は破却されました。破却(城割)がいつ誰によって、どのように行われたかの記録が残っているとても珍しい城で現在の整備・復元に大いに役立っているようです。
工事用道路から登城
まず、まちづくりセンター「千軒舎」へ行きスタンプとパンプレット
をゲットします。本来なら春日神社のある大手筋から登城するのですが
生憎、2018.9月の大型台風の影響で立入禁止になっていたため仕方なく
工事車両出入口から登城します。
説明看板
とても分かり易い内容で良く出来ていると思いました。
(さすがは教育委員会、パンフレットも凄く本格的でした)
「千軒舎」から登る事25分、ここで本来の登城道と合流します。
しかし、道の駅の名前がすごい「宇陀路大宇陀」って……。
城跡まであと100mとあります、ここまで山と木しか目に入らないので
本当にこの先に城跡があるのか?と思ってしまいます。
説明看板
もうすぐ城跡という所にこちらの看板があります、早速見てみましょう。
こんな感じで詳しく書かれています。
小道
先程の看板を過ぎると、このようなとても狭い小道となります。
「この道で会っているのか?」と不安になります。
横堀
狭い小道を進んで行くと、いきなりこんな感じで横堀が現れます。
郭を取り囲むように横堀が展開しています。
南西虎口部(雀門跡)
先程の横堀からすぐの所に虎口が現れ、いやがおうにもテンションが
上がります。説明看板があるので見てみましょう。
ここ雀門跡の発掘調査では「唐居敷」が検出しています、唐居敷とは?
門柱や門扉の軸を支える石又は板の事を言います。
ここでは石製の物が使用されていて、上面に径約9cm.深さ約5cmの軸受
けの穴が開けられ、底に直径とほぼ同じ大きさの鉄板がはめ込まれてい
ました。
埋もれた石垣
ここ宇陀松山城は城の取り壊しを命じられた小堀政一によって城割が
行われました。その際に破却されずに土に埋められた石垣などが現在
でも多く残っています。
こちらの石も土の中に埋もれていた物らしい。
こちらも。
城塁
各郭の外周はこの様な斜面(切岸)で構築され、城の防御としています。
雀門の所を上から見た写真です、かなりの傾斜になっています。
雀門から門跡2へ
南西虎口部の鉤折れになっている部分の通路となります、この途中の
右側に石垣が埋もれています。さっそく見てみましょう。
この様に多くの石垣が土の中に埋められているものと思われ、今後の
さらなる発掘調査が楽しみなところです。
取り壊すのが面倒だったから土の中に埋めたのか?
取り壊すのが惜しかったから土の中に埋めたのか?
どちらにせよ、結果的には貴重な石垣が現在まで残る事となったので
結果オーライといったところでしょうか。
南西虎口部 (門跡2)
写真中央部分に当時門があり、その上部を渡櫓が通っていたそうです。
帯郭の堀
本丸を中心として、その下に帯郭を配置し各郭間の物資の移動や連絡
通路として機能していたと思われます。(写真は帯郭の端部分)
南虎口部
本丸直下(南側)にある西帯郭と東帯郭の間にある虎口部分です。
きれいに整備されているのでスニーカーでも登城できます。
南虎口から見る本丸跡です。
本丸石垣跡
本来本丸部分を囲っていたであろう石垣の残骸がちらほらとありまし
た。
今回はここまで、其の二へつづく。
宇陀松山城
見所ポイント: 本丸、二の丸、帯郭、御加番郭、天守郭、虎口、石垣、等。
駐車場: まちづくりセンター千軒舎(数台)道の駅「宇陀路大宇陀」(沢山)
中間報告: " 宇陀松山城 " の名は今まで耳にする事は無かったので、正直なところいったいどんな山城なのだろう?とあまり期待はしていませんでした。ところがいきなり現れる横堀を筆頭に、各虎口跡や石垣跡を目の当りにすると自然とテンションが上がっていく自分がそこにいました。とてもよく整備されており、軽装でも難なく登城できる城跡となっており、お勧めです。
次回其の二では本丸~天守郭と紹介していきます。
其の二へつづく。