みやじ の登城備忘録

2018.4月スタートの続日本100名城スタンプラリーをメインに活動をしています。お城の散策と同時に地元B級グルメも堪能します。


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松尾山城登城! 関ヶ原の合戦 ・ 小早川秀秋が陣取った山城~

松尾山城

別名:長亭軒城、小早川秀秋陣跡、

所在地: 岐阜県不破郡関ケ原町松尾

城地種類: 山城

築城年: 応永年間(1394年~1428年)

築城者: 富島氏

文化財史跡区分:町指定史跡

陣跡の幟

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2017年4月6日の「城の日」に財団法人日本城郭協会続100名城を発表

しました。岐阜県からは郡上八幡城・苗木城・大垣城・美濃金山城

選ばれました。美濃金山城以外は登城済みなので、スタンプゲットの旅

に出る事にしました。移動途中で偶然目にした「違い鎌」の旗印!折角

なので挨拶がわりにここ「松尾山城」に登城しました。

松尾山城概要:

 松尾山城は、関ケ原町の南部にある標高292.9mの山頂に築かれた山城で眼下には関ケ原市街地を一望できる立地にあり、応永年間に美濃小守護代富島氏によって築かれたと記録にあります。その後城は織田信長支配下になりますが、天正4年に安土城へ居城を移し、また岐阜城に嫡男織田信忠を城主としたことでこの地での城としての役割を終え、天正7年に廃城となりました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦の際、西軍から東軍に寝返った小早川秀秋が松尾山城に陣取り、麓に陣取っていた大谷吉継の陣へと攻めかかったことで有名な山城です。

陣屋跡入口

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大垣城で続100名城のスタンプをゲットし、郡上八幡城へ向かうため

移動を開始、途中道を間違えウロウロしているとこちらの看板と幟を

発見!せっかくなので登城する事に。

 

駐車場

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こちらが駐車場となります、5~6台停められる感じでしょうか。

自転車が停めてある場所に看板があるので見てみましょう。

 

説明看板

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うまくフレームに収まりませんでした。

 

 

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こちらが当時の合戦陣形図となります、赤い色が東軍となります。

小早川と同時に麓の4つの部隊も裏切ったらしい、これではさすがの

西軍もひとたまりもありません。

 

登城路

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駐車場から本丸山頂まで35分~40分ぐらいでしょうか。

山肌はとても急峻ですが、登城路は緩やかで歩きやすい作りとなって

います。(スニーカーに軽装でも大丈夫)

 

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途中で石垣らしきものを発見、年代的な事は分かりませんでした。

 

帯曲輪

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ある程度登ったところで、斜面の下に帯曲輪らしき削平地がありました。

 

分かれ道

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個人的には " 行き止まり " のほうがとても気になるのですが、(時間が

あれば確認してた)ここはちゃんと右ルートを進みます。

 

右折

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先程の分かれ道からすぐのこの場所を右折します、直進しないように。

幟旗は安っぽい感じだが、「こっちですよっ」みたいな感じでここに

立てているのには感謝の念を抱かずにはいられません。

 

神社

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 右折してからすぐの左側にこちらの石柱があり、道があります。

 

 

大堀切?

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神社から歩くこと数分、尾根が大きく切り開かれている場所にでます。

自然に出来たものとは考えにくいので、" 大堀切 " という事にしておき

ます。

 

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さらに進むと、道が土砂崩れで崩れています。

写真では分かりにくいですが、かなりの急斜面で落ちたら下まで転げ

落ちます。(安全対策の工事を早急にお願いします)

 

本丸まであと少し

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そろそろかなぁ~、まだかなぁ~、と登りつづけてここまで来ました。

頂上はすぐそこです。

 

看板

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天正7年(1579)に廃城となりましたが、21年後歴史にその名を刻む

事になります。

 

本丸跡

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ついに到着しました、パッと見はあまり広くない感じですがこの奥に

はトイレなどがあります。

 

看板

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小早川秀秋陣跡」の説明が書かれています。

ここでいくつか疑問に思いました、それは…。

① この山の何処に1万5千もの兵がいたのか?(斜面は急峻で平地がとても少ない)

② 「鉄砲を打ち)込まれ」うちこまれではないのか?

③ 家康が桃配山から陣地変換して、徳川家康最後陣跡から鉄砲を打込んだとあるが、

  直線距離で約2.2km、当時の火縄銃で玉が届くのだろうか?

小さい事がとても気になる、自分の悪いクセです。

 

危うく

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細くて地味な石柱なので、危うく見過ごすところでした。

(風景に馴染みすぎ!)

 

本丸土塁

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本丸を取り囲むように土塁が形成されています。

 

山頂から

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関ヶ原は周りを山に囲まれた盆地で昔から軍事、交通の要所でした。

ここ松尾山山頂からは関ヶ原盆地を見通せます。

 

違い鎌の旗印

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往時、この松尾山山頂にこの「違い鎌」の旗がこんな感じで掲げられて

いたのだろうか?(旗が若干、安っぽく見えてしまうのは気のせい?)

 

 

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現在では直下の木々が大きく伸びているので、やや視界をさえぎって

しまっています。

何やら看板らしき物があるので、見てみましょう。

 

 

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こうして陣形図をみて見ると、小早川秀秋は高い所から、文字通りの

" 高見の見物 " をしていた事が分かります。

 

笹尾山方向

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石田三成が陣を敷いた笹尾山方面です、この位置からだと肉眼でも

石田隊の様子が見てとれそうです。

 

桃配山方面

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雑木が邪魔で見えませんが、徳川家康が最初に陣を敷いたとされる

桃配山方面となります。

名前の由来は名産の美味しい桃を全兵士に配り、戦に勝利した事から

この名が付いたと伝えられています。

 

読めない看板

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まったくもって何と書いてあるのか分かりません。

 

下城

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名残惜しくもありますが、郡上八幡城へスタンプを押しに行かなければ

ならないので、ここで下城します。

 

スタンプは…ありません。

松尾山城

見所ポイント: 急峻な山肌、帯曲輪、虎口、大堀切、本丸、土塁、山頂から見る関ヶ原

駐車場: 松尾山の麓に5~6台程度

総評: 大垣城から郡上八幡城へと移動の際に、ナビがありながら道を間違えウロウロするという前代未聞の失態のおかげで、今回こちらの松尾山城へ登城する事ができました。これも何かの縁、巡り合わせというやつでしょうか?

山の名前はともかく、誰もが一度は耳にした事がある関ヶ原小早川秀秋・裏切り。

西暦1600年に起きた関ヶ原の戦いの勝敗を決定付けた、まさに歴史的に重要な場所に来る事が今回できました。往時、小早川秀秋はどの様な気持ちでここから戦場を見ていたのか?なぜ西軍ではなく、東軍へと鞍替えしたのか?今となっては知る術はありません。こんな歴史ミステリーに満ち溢れた山城、松尾山城跡へ週末あたり訪れてはいかで

しょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宇陀松山城登城! 続日本100名城 11城目   徹底的に破却された城~其の二(完)

宇陀松山城

別名: 秋山城

所在地奈良県宇陀市大宇陀春日・拾生・石清水

城地種類: 山城

築城年代南北朝

築城者: 秋山氏

主な関連施設: まちづくりセンター千軒舎

文化財史跡区分: 国指定史跡

天守郭南虎口

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2017年4月6日の「城の日」に財団法人日本城郭協会が続100名城を発表

しました。奈良県からは大和郡山城と " 宇陀松山城 " が選ばれました。

続100名城は幾つか登城済みですが、スタンプを押したうえで登城数を

カウントしたいと思います、今回行った宇陀松山を登城 11城目とします。

宇陀松山城概要:

南北朝から戦国期にかけて秋山氏が築いた山城で、秋山氏が退去したあと豊臣家配下の大名の居城として改修・整備が行われ近世城郭に近い形の城になりました。その後も城主は入れ替わり、元和元年(1615)大阪の陣後、当時城主であった福島氏が改易となり城は破却されました。破却(城割)がいつ誰によって、どのように行われたかの記録が残っているとても珍しい城で現在の整備・復元に大いに役立っているようです。

本丸石垣

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宇陀松山城の中心部は本丸と天守郭の東西に並ぶ2つの郭で構成されて

います。本丸跡は東西約50m、南北約45mの平坦部を持ち、城内で最大

の規模を誇ります。

 

本丸御殿跡

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資料によると、本丸内の建物は全て礎石建物で、中央の御殿群と周辺

の多門櫓群に分かれていたそうです。瓦の出土状況から多門櫓は瓦葺き、

御殿は桧皮(ひわだ・ひはだ)ないしは柿葺きと考えられるそうです。

説明看板があったので見てみましょう。

 

 

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発掘調査で色々な事が判明したんですね。

 

景観看板

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この辺りでは一番の高台にあるので見晴しは最高です。

ではその眺望を見てみましょう。

 

 

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たしかに空が美しい!遠くの山まで見通せる!でも周りは全部山!

このような立地条件に宇陀松山城は存在しています。

 

東帯郭へ

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本丸跡から東帯郭へ移動します、本丸跡からはこのような階段によって

一段低い帯郭へと下りていきます。

 

東帯郭

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天守郭の南側に位置する東帯郭となります。(なんかややこしい)

本丸南東虎口を中心に東西に分かれた帯郭なのでこのような事になって

います。

 

東帯郭切岸

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雑木が切られ、草刈がされ、見事な切岸があらわとなっています。

が、先程の東帯郭同様に斜面の崩れが心配です。(ブルーシートの所)

 

 

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かなりいい感じの角度と高低差の切岸にうっとりします。

 

 

天守郭北側

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この斜面の先に北帯郭があるみたいなのですが、道らしきものが無いの

で下りる事はしませんでした。(まだ整備中で見学できないのかも)

 

 

天守郭北虎口

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往時、ここには門と付櫓があり、多門櫓とつながっていたようです。

 

 

天守郭南虎口

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 この部分だけ見ると、ここは何?となりますが向かって左側には付櫓

があり正面の石垣上には多門櫓が、そして右側のスロープの先には門が

ありました。

 

 

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多門櫓があったとされる所から本丸を眺めます、やはり建造物が無いと

なかなかイメージがつかめませんね。

 

残念石

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本丸郭内にあった " 残念石 " です、ここで石垣の石として使われる前に

廃城となってしまった可哀そうな石です。

 

天守郭説明看板

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現在では建造物のほぼ全てが残ってはいませんが、詳細な城割の記録

が残っているのでここまで詳しく分かるんですね。

 

石碑

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何の石碑なのかさっぱり分かりません。

 

 

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同じくさっぱり訳が分かりません。

こんな時いつも思います、昔の文や漢字が読めたらなぁ~と。

 

 

大御殿郭

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天守郭の東に堀を隔てて存在するのが " 大御殿郭 " となります。

その南部分に南東虎口部があり、大門と呼ばれるこの城において要と

なる大きく立派な門がありました。

 

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先程の場所から右(南)に45度顔を向けると、こちらの風景があります。

真ん中の奥の部分ですが、何やら遺構があるみたいです。

この日は時間が無かったので見に行きませんでしたが、時間に余裕が

ある方は見に行って下さい。

 

下城

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名残惜しくはありますが、スケジュールが詰まっている(遅れている)

ので下城する事にしました。

 

まちづくりセンター千軒舎

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こちらでスタンプを押す事ができます、ただし駐車場が狭い(3~4台)

ので停められない場合はウダウダ言わずに道の駅「宇陀路大宇陀」に

停めましょう。肝心のパンフレットですが、2018年10月現在では宇陀市

教育委員会が作成した本格的な小冊子風のパンフしかありません。

(通常は市作成のパンフレットや観光協会作成のパンフレットがあるの

ですが)なので数に限りがある高価なパンフレットを受付の人にお願い

してゲットしましょう。

 

ご当地グルメ

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三輪そうめん概要:

原料に小麦粉を使い冬の寒い時期に手延べ法により精製したもので、腰のしっかりした煮くずれしにくい独特の歯ごたえと舌ざわりの良さを特徴とするそうめんです。日本における「そうめん」はここが起源であるとされ,兵庫県や小豆島など各地にあるそうめんの産地はここより製法が伝わっていったものであるとされています。(諸説あり)

ここで食べました→https://tabelog.com/nara/A2904/A290403/29005999/

 

スタンプ押印

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スタンプ設置場所:まちづくりセンター「千軒舎」

スタンプの状態: " "  屋内管理で状態はとても良い。

スタンプの印影天守郭の虎口がモデルとなっており、まさに

        「いぶし銀」の風格といったところでしょうか。

 

宇陀松山城

見所ポイント: 本丸、二の丸、帯郭、御加番郭、天守郭、虎口、石垣、等。

駐車場: まちづくりセンター千軒舎(数台)道の駅「宇陀路大宇陀」(沢山)

総評: この宇陀松山城は「城割」を命じられた小堀政一遠州)によって廃城となりました。その際に建物の解体や石垣の破壊の様子を細かく観察し、詳細に記録したため、その記録を元に城の姿を考証する貴重な資料となっています。全国的にもとても珍しいとされ、遺構の修復や復元におおいに役立っていると聞き、感動と感謝の念を隠せません。本丸跡からの眺望や破却をまぬがれた石垣など、見所が多くあり特にこだわった造りの虎口などは見ていて飽きがきません。やや玄人好みな感じの山城ではありますが、

遠路はるばる足を運ぶ価値がある山城だと思います。こんな見所多数の山城、宇陀松山城に週末あたり訪れてはいかがでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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