みやじ の登城備忘録

2018.4月スタートの続日本100名城スタンプラリーをメインに活動をしています。お城の散策と同時に地元B級グルメも堪能します。


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出石城登城!続日本100名城20城目      階段状に築かれた曲輪と高石垣~

出石城・有子山城

別名出石城(石城)有子山城(高城)

所在地: 〒668 - 0214 兵庫県豊岡市出石町内町

城地種類出石城平山城)有子山城(山城)

築城年代出石城・慶長9年(1604) 有子山城・天正2年(1574)

築城者出石城 (小出吉英)有子山城(山名祐豊)

主な関連施設: いずし観光センター(続100スタンプ設置場所)

文化財史跡区分出石城(市指定史跡)有子山城(国指定史跡)

お城坂(稲荷参道)

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2017年4月6日の「城の日」に財団法人日本城郭協会が続日本100名城

発表しました。兵庫県からは出石城・有子山城黒井城が選ばれました。

スタンプを押したうえで登城数をカウントしたいと思います、今回の

出石城・有子山城をもって登城 20城目とします。

出石城・有子山城概要:

織田信長の但馬侵攻を受け此隅山(このすみやま)城を追われた山名氏が天正2年(1574)に築いたのが有子山城とされています、そして6年後の天正8年(1580)に豊臣秀長の攻撃により落城してしまいます。そして慶長9年(1604)に山頂の有子山は廃城となり、山麓の居館と曲輪を中心に出石城として拡張&改修が行われ近世城郭としての出石城が誕生しました。この時同時に城下町も整備され、「但馬の小京都」と呼ばれるほどに城下町が発展していきました。

駐車場(いずし観光センター)

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観光センター前にある「大手前有料駐車場(70台)」に停めました。

ここ以外にも「西の丸有料駐車場(100台)」等があり、駐車場の心配

はいらないと思います。

ここ、いずし観光センター内に続100スタンプがあり、パンフレット

もこちらで貰えるので先に立ち寄ってから城跡へと行く事をお勧めします。

 

登城橋

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現在の出石城出入口となっている「登城橋」ですが、こちらは近年に

作られた模擬の建造物となります。

出石城古図」によると当時、ここに川は無く作事小屋などの建物群

があったと記されています。

 

登城門

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こちらの門も当時は埋門で現在のような高麗門ではありませんでした。

そもそもここは本来の出入り口ではありません。

そのような案内看板等が一切無いので、一般の人達はここが大手の登城

門だと勘違いしてしまいます。

(やはりきちんと看板等で説明を表記するべきではないでしょうか?)

 

野面積の石垣

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登城門の西側にある石垣です、このまま西の丸の外周を石垣が囲って

います。石の質感が古い感じでとても雰囲気がでています、江戸時代

からの石垣と言われています。

 

隅石に矢穴

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このような感じで西の丸の外周を野面積の石垣が囲っています。

よ~く見ると隅石に " 矢穴 " の跡が見てとれます。

この頃購入した「ミニ矢穴ずかん」という同人誌の影響を受け、石垣

を見ると必ず矢穴を探してしまうという謎の病気に悩まされています。

 

二の丸高石垣

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先程の登城門(埋門跡)の先左側(東側)にある下の曲輪と二の丸と

を隔てる高石垣となります、印象としてはとにかく苔むした感じと石材

の色(黒く変色)が凄いので「おぉ~!」と、声がでてしまいました。

 

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石垣をやや左から見てみます、あっ!隅石に矢穴跡を発見です。

なんだ、この症状は?やたらと矢穴が気になってしまう。

 

積直し?

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二の丸の石垣を正面から見てみます、石垣下半分の間詰石はまるで子供

が遊びで小石を詰めたかの様にギュウギュウに詰められているのに対し、

上半分はとてもシンプルに出来ている感じです。

地震等で崩れた石垣を補修した跡でしょうか。

 

模擬櫓

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当時、ここには隅櫓は無かったので模擬櫓となります、昭和43年(1968)

に町民の寄付により建築されました。

パンフレットにはここの石垣に刻印が見られると記載されていて、舐

めるように見回したが発見する事はできませんでした。

(詳しい場所を書いておいてもらいたかった)

 

 

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模擬西隅櫓を正面から見た写真です、本来無かった場所に建てられた

模擬櫓ですが以外としっくりきていて驚きました。

ただ、その手の説明看板等が無い事に関しては、豊岡市さんに改善し

てもらいたいです。

 

模擬櫓の石垣

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パンフレットに書いてある " 刻印石 " を探しまくるが刻印は見つからず。

目に入るのは " 矢穴石 " ばかり……。

 

渡櫓跡

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パっと見た時に何だここは?と思いました。

パンフレットを読むと、往時ここには本丸とその下にある二の丸とを

結ぶ渡櫓がありました、と書かれていました。

全国的にみてもとても珍しい建造物だったみたいですね。

 

山里丸とお城坂

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場所的には本丸と二の丸とを隔てる高石垣の東側の参道付近となります。

左手に見える石垣が山里丸の曲輪を囲む石垣となり、ここ出石城でもっ

とも印象的な " 矢穴石 " と出会う事になります。

 

山里丸の石垣

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ここ山里丸の石垣は城内でもっとも新しい年代の石垣が残り、算木積

の隅石に矢穴が沢山見られます。

平成28年(2016)に改修工事を受け、現在のような整然とした姿の

石垣に生まれ変わりました。

 

印象的な矢穴石

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この矢穴石を見た時、とっさにあるストーリー(妄想話)を思いつき

ました、それは……。

いい歳したおっさんが言うとドン引きされそうなのであえてしません。

 

山里丸曲輪

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現在はこのような感じですが、当時はここに何があったのか?

資料を色々調べてみるが分かりませんでした。

 

水路の矢穴石

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東隅櫓(模擬)の脇にある水路の蓋が見事なまでの矢穴石だったので

思わず一枚。

もう完全に病気と化しています、そう、強いて言うならばこれは「矢穴病」!

現代の医療技術を以ってしても治すことができない不治の病です!(笑)

 

本丸跡へ

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いよいよ本丸跡へと到着です、写真にもあるとおりこの本丸の上部に

も曲輪があり(稲荷曲輪)階段状に連なる縄張りが展開されています。

 

稲荷曲輪高石垣

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本丸の上部に位置する稲荷曲輪の高石垣がこちらとなります。

石垣の高さは約13.5mとなり、但馬地方では最大級の高さと規模を誇り

築城当時の力の入れようが計り知れる造りとなっています。

 

 

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稲荷曲輪の高石垣を正面から見てみます、整然と積まれた石垣には苔

が生え数百年の時の経過を表わしているようであり、畏敬の念を込め

て暫くのあいだ見つめる事しかできませんでした。

 

 

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正面から少し右側(西)へと移動して石垣を見てみます。

苔が良い味だしてますが、気になるのは石垣の孕みです。

わずかではありますが中央部分が若干孕んでいます。

 

稲荷曲輪東㟨高石垣

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ここ稲荷曲輪東端の高石垣は広角レンズでも普通に構えては収まりませ

ん、やや斜めに構えてやっと収まる程の高さ&長さとなっています。

ここ出石城において一番の見所ポイントではないでしょうか。

 

 

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そのすぐ横にこの様な " 折れ " がある石垣が展開しています。

横矢をかけるための造りでしょうか。

 

稲荷曲輪高石垣上から

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稲荷曲輪の石垣天端からの風景となります、高さ13.5mとありますが

実際に見た感じだとそれ以上の高さに感じ、足がすくむ感覚を覚えます。

 

稲荷曲輪から見た城下町

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写真はありませんが、直下の本丸南西部には「感応殿」があります。

" 戦国史上最も返り咲いた武将 " として語り継がれているあのマンガで

もお馴染の武将、" 仙石権兵衛秀久 " を祀っています。

仙石権兵衛秀久とは?

秀久は若き頃、織田信長に命じられ木下藤吉郎豊臣秀吉)に使えたとされています。

秀吉の出世と共に自らもいち早く大名へと出世をしました。

九州攻めでの失敗で秀吉の怒りに触れ改易となるも、小田原攻めで活躍し信州小諸城

として見事に返り咲きました。(秀久の死後仙石家は小諸~上田~但馬出石へと移封)

天下の大泥棒、石川五右衛門を捕縛したとの伝承があり石川五右衛門が盗もうとしていた「千鳥の香炉」を秀吉が褒美として与えたと言われています。

 

稲荷曲輪の井戸

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稲荷曲輪の南西にある井戸となります、とても厳重に鉄柵で囲まれてい

るため井戸の中をうかがい知る事ができません。

 

有子山稲荷社

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ここは本丸より上部に位置し出石城において最上段の場所になります。

ここに建つ有子山稲荷社は、小出吉英が城内鎮護のために有子山城の

稲荷社を移したものとも、旧領岸和田の稲荷社分霊を勧請したものとも

いわれています。(パンフレットより引用)

 

有子山登山口

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先程の最上段の曲輪からこちらの山道を登って行くと、有子山城へと

行く事ができます、本来ならこのまま進むのですがこの時点で時間は

PM 15:00 空にいたっても今にも泣きだしそうな空模様。

今回はとても残念ではありますが登城を諦め、またいつの日か訪れる

事にしました。(断腸の思い)

 

ご当地グルメ

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 出石そばとは?

上田藩より出石藩に国替えとなった仙石家が、蕎麦職人を連れてきたことに始まるとされています。

蕎麦は実を丸引きしていて、色と風味が強い蕎麦が特徴となっており、

挽きたて」「打ちたて」「茹がきたて」の“三たて”が伝統的な信条とされています。

 

スタンプ押印

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続100名城のスタンプは " いずし観光センター内 " にあります。

ここでパンフレットとスタンプ、そして皿蕎麦 めぐりの巾着セットも

買えるので真っ先にここを訪れる事をお勧めします。

 

 

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スタンプ設置場所:いずし観光センター内 

スタンプの状態: " " フチにインクが付かないので状態は良。

スタンプの印影: 二の丸から見る西隅櫓(模擬)が印影となります。

        気持ちは分からんでもないが、そこに櫓は無かった…。

出石城

見所ポイント:本丸、二の丸、稲荷曲輪、山里丸、西の曲輪、石垣、濠、虎口、等。

駐車場:大手前有料駐車場(70台)・西の丸有料駐車場(100台)等。

総評:この出石城・有子山城が何故、続日本100名城に認定されたのか?まずはその部分を理解してから登城する事がこのお城と城下町を堪能するうえで重要な事だと思いました。天正2年(1574)に当時但馬守護であった山名祐豊が築いた戦国期の有子山城の姿から天正8年(1580)の羽柴秀長の石垣を多用した城郭への移り変わり。これが前半のコンバージョンとなり、その後第2段階で慶長9年(1604)に小出吉英が有子山城の居館部を改築&増築して出石城を完成させ、元禄10年(1697)に松平忠周がこの出石に入部し、出石城を取り囲むように三の丸を構築し大きく拡張。これが後半のコンバージョンとなり、時代の流れとともに変化する縄張り、城郭のあり方の変化等がとてもよく分かる城跡となっている事が評価され、続100名城に認定されたのではないでしょうか。これら城の推移と共に城内に残る石垣等の遺構も良好な状態で残っていて、見所が多い城跡、城下町となっています。そんな魅力に満ち溢れた出石・有子山城へ週末あたり訪れてみてはいかがでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

滝山城攻城!続日本100名城19城目     リアルぽちっと滝山城(城歩きイベント編)其の二・完

滝山城

別名: なし

所在地: 〒192-0002  東京都八王子市高月町(都立滝山公園)

城地種類: 山城(平山城

築城年代: 大永元年(1521)

築城者: 大石定重

主な関連施設: 八王子加住市民センター(スタンプ)道の駅八王子(スタンプ)

文化財史跡区分: 国指定史跡

千畳敷

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2017年4月6日の「城の日」に財団法人日本城郭協会が続日本100名城

発表しました。東京都からは品川台場滝山城が選ばれました。

スタンプを押したうえで登城数をカウントしたいと思います、今回の

滝山城をもって登城 19城目とします。

今回は、ナワバリストの " 西俣総生 " 先生と城郭ライターの " いなもと かおり "

さんが企画する城歩きイベントに参加してきたのでその様子を元にして

滝山城攻城をレポートしていきたいと思います。

滝山城概要:

もともと滝山城は大永元年(1521)に山内上杉氏重臣大石定重が築いたとされています。天文15年(1546)の川越城の戦いで北条氏が勝つと、大石定久は北条氏康の息子氏照を娘婿に迎え永禄元年(1558)ごろから滝山城の本格的な改修に着手しました。永禄12年(1569)に甲斐の武田信玄が実に2万もの軍勢でここ滝山城に侵攻したときは、別働隊の攻撃により三の丸が陥落、落城寸前のところまで攻め込まれましたが、滝山城の守備兵2000が奮闘し落城を免れます。その後氏照は八王子城を築きここ滝山城は廃城となりました。

滝山城:其の二(完)

 其の一では小宮曲輪~三の丸~大馬出~大池跡と紹介しました、今回其の二では大池跡

を北上し二の丸~中の丸~本丸へとレポートしていきます。

 

大池北側土塁

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前回其の一ではここ大池北側まで紹介しました、今回はここから北上し

二の丸へと進んで行きます。

 

 

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写真左に人が2人写っているのが見えるでしょうか?

この凄まじいまでの土木量が分かってもらえる瞬間です。

 

 

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大池跡横のこの何処までも続いて行きそうな横堀を見て下さい。

この土木工事を当時、人が手作業で行ったかと思うと感心します。

ホント北条の人達は土いじりが好きなんだなぁ~。

 

東馬出へ移動

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現在地的にはちょうど東馬出の虎口になります。

 

東馬出説明看板

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東側・南側から攻め上がってきた敵兵は必ずここへと到達します。

そして、二の丸南側の高土塁から攻撃を受け迎撃されるというなんとも

恐ろしい、そしてよく考えられている縄張設計となっています。

もし自分がこの曲輪に名前をつけるとしたら、「 敵兵集約の曲輪

とでも名付けるのではないでしょうか。

 

東馬出と堀

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二の丸の東側に位置する馬出で、こちらも大馬出と同様にとても大きな

馬出で二の丸を厳重に防備する構造となっています。

 

 

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今回、西俣先生が自ら作図された「 滝山城縄張図 」 を参加者全員に

事前配布してもらっていたので、先生の説明もこの縄張図を見ながら

よく理解する事ができました。

とても精緻に描かれているので、感動すら覚えてしまう程の出来栄え

となっています。(転載禁止なのでお見せできないのが残念)

 

 

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西股先生の作図された「 滝山城縄張図 」ですが、勉強会の時にされた

話では2週間かけて書き上げたという事でした。

あの広大な滝山城を隅から隅まで歩き、あそこまで精緻に描き上げ、

わずか2週間で仕上げてしまうとは驚きです。

現在この縄張図は自分の宝物として大切に保管してあります

 

南東端の木橋付近

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滝山城の東側は信濃屋敷、形部屋敷、カゾノ屋敷というこれまた巨大

な曲輪が配置されており、東馬出とセットで城の東側を厳重に防備する

構造となっています。

 

 

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こちらの城歩きイベントでは、西俣先生が縄張の構造についての説明

はもとより、歴史的背景からくる当時の政治戦略や心理戦なんかについ

ても、独自の見解をふまえたうえで解説して下さるのでとても勉強に

なりました。

 

中の丸へ移動

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ここで3万(30人)の大軍は、この城においての最重要防衛ラインで

ある二の丸を突破し、一気に中の丸へと進撃しました。

 

 中の丸広場

 

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この後ろ(南西)にトイレがあり休憩する事ができます、また続100

名城のスタンプもここ中の丸で押す事ができます。

これまで常に大軍の後方で皆を応援しながら戦況を見守っていた自分。

二の丸を突破した事で一気に勢いづき、ここからは先陣を切る事に。

 

多摩川方面の眺め

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標高は低いですが、なかなかの景色となります。

当時は木々が伐採されていて見晴が良く、周囲を監視できたはずです。

 

引橋を渡り本丸へ

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中の丸と本丸との間は巨大な大堀切で仕切られているので、この様な

橋が架けられていますが、当時はいざ敵に攻めこまれそうになった時

は本丸枡形内へと橋を引き込む事ができたそうです。

そこから「引橋」という名が付けられたそうです。

 

枡形内の石敷き

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引橋を渡ると土塁で囲まれた枡形虎口があるのですが、ここは発掘調査

の結果写真にあるように石敷きであった事が判明しています。

西股先生の話では、排水のための水路も本丸からここの虎口まで続いて

いたという事を話されていました。

 

 

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こちらが橋を渡った所にある土塁囲みの本丸枡形虎口となります。

この本丸周辺(とくに北側・西側)は堀や土塁の高さや規模が、今まで

見てきた部分とは違いかなりコンパクトにまとめられている感じが

しました。

 

本丸

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 こちらが本丸となります、奥に見えるのが「霞神社」で戦没者の慰霊

のために建てられたそうです。

 

井戸

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本丸にある井戸跡となります、現在では水は枯れていてありません。

井戸内部は底まで石積がなされていて、しっかりとした造りになって

います。

 

本丸からの景色

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現在では木々がうっそうと生い茂り、このような景観となっています。

 

 

本丸説明看板

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丁度この辺り(本丸北側~西側)は曲輪や堀、土塁といった城の構造が

とても小さくコンパクトに作られていて、今まで見てきた滝山城の防御

構造とは一線を画すような縄張構成となっているように感じました。

もともと大石氏が築いていた城の場所、痕跡かもしれませんね。

 

本丸搦手の虎口

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本丸の北端に移動する際にここを通りました。

確か西俣先生が「ここが搦手の虎口となります」と言っていたような

気がします。(違っていたらごめんなさい)

言われなければただの小道にしか見えませんでした。

 

 

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こちらの場所については正直何処だったか覚えていませんが、見ての

とおり相変わらずの見事な土塁っぷりに感心させられます。

 

滝山城最北端部の切岸

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こちらは本丸よりさらに北側へ行った所にある城の北端部となります。

西股先生がここまで案内し、何かをご説明されていたのですがいつもの

悪い癖(人の話を聞かない)で聞いていなかったので、何が凄いのか

聞き逃してしまいました。

 

集合写真

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本丸とその周辺を攻略し、今回の滝山城攻めは無事終了となりました。

西馬出で参加者全員で撮った記念の集合写真がこちらとなります、充実

した時間を満喫したせいか、参加者全員とても良い笑顔だったのを今

でも覚えています。

 

ご当地グルメ

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 八王子ナポリタン:

八王子のご当地グルメ " 八王子ラーメン " のパスタ版がこちらの八王子

ナポリタンとなります。

特徴としては刻んだ玉ねぎがシャキシャキとした食感で、玉ねぎの辛味

がアクセントとなり、トマト風味のパスタの味を引き立てる感じのパス

タとなっています。

ここで食べました。 https://tabelog.com/tokyo/A1329/A132904/13159491/dtlphotolst/1/smp2/

 

スタンプ押印

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 スタンプ設置場所:八王子加住市民センター・滝山城中の丸・道の駅八王子滝山

スタンプの状態: "  "  道の駅で押しました。(加住市民センターがお勧め)

スタンプの印影: 本丸と中の丸をつなぐ引橋が印影となります。

滝山城

見所ポイント:本丸、中の丸、二の丸、三の丸、横堀、土塁、馬出、虎口等。

駐車場:滝山観光駐車場(城址専用無料P)約30台駐車可能。

総評:永禄12年(1569)に武田信玄が2万もの大軍で侵攻したが、滝山城はこれを2000の兵で撃退したとあります。実際には落城寸前のところまで攻め込まれたみたいですが、ここ滝山城のストロングポイントでもある秀逸な縄張設計と変態的とも言える深い横堀、高土塁等の防御構造により見事に城を守りぬく事に成功しています。

今回、西俣先生といなもとさんの企画のもと、ここ滝山城を大勢で散策したわけですが1人で歩いていたら気が付かないであろう小さな遺構や、地形の凹凸からなる防御構造の姿など多くの事を先生の解説のもと見る事ができ、とても勉強になりました。

西股先生、いなもとさん、そしてこの日一緒にイベントに参加した皆さん、本当にありがとうございました。2019.1.27. 皆で滝山城大軍で攻めたこの日の事を自分は生涯忘れる事はないでしょう。こんな変態的とも言える土の城「滝山城」に週末あたり訪れてはいかがでしょうか。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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