信玄築石
所在地: 〒401-0337 山梨県南都留郡富士河口湖町本栖
城地種類: 古道
構築年代: 1500~1550年頃か?
構築者: 武田氏?
文化財史跡区分: 不明
信玄築石概要:
昭和初期まで、中道往還が未だ徒歩の旅人や村人たちの通行に利用されていた頃は、此処に信玄築石と墨書した木の標柱が建っていましたが、年月の経過と共に朽ち果ててしまいました。
この山裾を中道往還が通過しており、中世中道往還が軍用道路として重視された頃、街道防備の目的で構築されたものと考えられます。溶岩を積み上げる工法は、城山の郭付近に見られる石積みと似通っており、鉤型に屈曲した構造は中世城館の土塁や虎口に普通に用いられる形態に共通しており、本栖の城山と直接、ないし何らかの関連を有する構造と考えることができます。(案内看板より引用)
信玄築石
前回登城した本栖城の麓、富士の樹海にある古道中道往還にある
" 信玄築石 " とその他石塁を探索する事にしました。
本栖湖側入口(静岡側)
まず駐車場ですが、基本この場所に2台、富士吉田側(山梨側)に2~3台
しか停める事が出来ません、しかも写真の場所(本栖側)はカーブで見通し
が悪いためこの場所に出入りする際は注意が必要です。(かなり危険です!)
説明看板(旧)
中道往還は生活路、軍用路としてとても重要な役割を果たして
いたみたいです。
説明看板(新)
こちらが新しい中道往還の説明看板です。
古道入口
車2台しか停められない駐車場?に車をとめて散策開始です。
この時点ですでに雰囲気でてます。(さすがは富士の樹海)
こんな感じの道をどんどんすすんで行きます。
倒木
しばらく進むと倒木により道が塞がれていました。
向かって左側の石積から迂回します。(この石積も溶岩でできています)
道端の石積
古道に積まれた苔むした石垣群は年代的にも材質的にもとても
珍しく貴重な石積であると思われます。
城山の山肌
石垣の反対側は写真にあるような急峻な山肌が続きます。
そうです、この山こそ本栖城の城山でその裾野に中道往還が
通っているのです。
ついに到着!
「 信玄築石 」
昭和初期まで、中道往還が未だ徒歩の旅人や村人たちの通行に利用されていた頃は、此処に信玄築石と墨書した木の標柱が建っていましたが、年月の経過と共に朽ち果ててしまいました。
この山裾を中道往還が通過しており、中世中道往還が軍用道路として重視された頃、街道防備の目的で構築されたものと考えられます。溶岩を積みあげる工法は、城山の郭付近に見られる石積みと似かよっており、鉤型に屈曲した構造は中世城砦の土塁や虎口に普通用いられる形態に共通しており、本栖の城山(南方山頂)と直接、ないし何らかの関連を有する構造と考えることができます。
築石(山梨側)
甲斐の国と駿河の国を結ぶ、当時の主要幹線道路ともいうべき中道往還。
静岡県側からの敵襲に備えて「信玄築石」が造られたと思いますが、
写真にあるように山梨側は階段状になっており、直ぐに石積に駆け上がれる
造りになっています。
築石(静岡県側)
あるように垂直に積み上げられています。
築石アップ
石積を間近で見てみます、石一つ一つはそれ程大きくはありません。
ほぼ全て溶岩で積まれています、とても珍しく貴重な遺構です。
経年劣化もあるのか、崩れている所も数カ所見受けられます。
修繕や修復をしてこの遺構を保存していくべきだと思いました。
山梨側アップ
樹海に佇む溶岩の石積、苔むした感じがとても良い。
やはり所どころ崩れかけています、完全に崩れてしまう前に
修繕・修復をしたほうが良いのでは?
溶岩アップ
溶岩は見て分かるとおり、ぶつぶつの小さな穴があるのが見てとれます。
なかは空洞になっているので、とても軽い石となっています。
(だからこそ強度不足で壊れやすい)
城山の山肌
ここ中道往還は戦国時代、織田信長や武田信玄、徳川家康も通った記録があります。
彼ら戦国大名もこの景色を見たのかなぁ~などと物思いにふけってしまいました。
例えば…
信長:「のう、この急峻な山は何じゃ。」
部下:「はっ、本栖の城山にございまするっ。」
信長:「…で、あるか…。」
みたいな感じで。
織田信長や徳川家康、武田信玄はそれぞれどのような想いをもって
この中道往還を通ったのか?
この場所に立った時、ふとそう思ってしましました。
古道吉田側入口(山梨側)
ここは国道が直線なので車での出入りが安全に行える為、見学に
来る時はここに駐車して見学することをお勧めします。
最後にもう一枚
この石垣はここで400年間ずっと、人間達の生き様や歴史を見てきた
のか? と思うととても感慨深い気持ちになりました。
信玄築石
見所ポイント:中道往還、石塁、信玄築石、樹海の景色、
駐車場: 国道139号線沿い本栖側(2台)富士吉田側(2~3台)
総評: 中道往還は、古代、甲斐国の政治の中心が釜無川以東にあったことから、縄文・弥生時代、古代の道として、鎌倉時代には、甲斐源氏の武田信義、安田義定らの武将や戦国時代には、武田信玄、織田信長、徳川家康等の名将が往来した軍用道として、本栖・古関には関所がおかれました。 往時の証として、女坂峠にこんな句碑が立っています。生魚の二十里走る郭公鳥(ホトトギス) 山梨県・上九一色村」と、案内看板にかいてあります。まったくもって素晴らしい解説だなと思いました。
道沿いに積まれた石積や詰所跡のようなもの、信玄築石等、まさにここ中道往還がいかに重要な " 道 " であったのかを物語っている遺構の数々に興奮と感動を隠す事ができませんでした。
かつて織田信長や徳川家康、武田信玄も通ったここ中道往還で信玄築石を見ながら
往時に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
グーグルマップで出ませんでした。(さすがは富士の樹海!)