みやじ の登城備忘録

2018.4月スタートの続日本100名城スタンプラリーをメインに活動をしています。お城の散策と同時に地元B級グルメも堪能します。


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駿河・丸子城登城!駿府の西、宇津ノ谷峠を守る山城~

丸子城

別名: 宇津谷城、鞠子城、三角城、赤目ヶ谷砦。

所在地:〒421-0103 静岡県静岡市駿河区丸子3210。

城地種類: 山城。

築城年代:不明 。

築城者: 斎藤氏?。

主な関連施設駿府の工房匠宿(駐車場)。

文化財史跡区分: 不明。

北曲輪西側の横堀

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静岡県静岡市に、「丸子城」という、とにかく遺構が素晴らしい凄い山城があると聞き、行ってきました。

2022.2.23登城。

丸子城概要:

現在の静岡県静岡市丸子に今川氏の家臣によって築かれた山城で、駿府城の西側にある旧東海道丸子宿のそばにあります。東海道を監視する重要な位置にして、西から宇津ノ谷峠を越えて駿府に侵入してくる敵を、迎え撃つための防衛拠点としての役割を果たしていたと考えられます。1568年(永禄11)に武田信玄駿河に侵攻、丸子城は武田軍により接収され、山県昌景が城代としておかれました。その後、1581年(天正9年)丸子城は徳川軍の支配下に置かれ、1590年(天正18年)に廃城となりました。

丸子城縄張図

現地の案内看板にあったこちらの縄張図を参考に、丸子城をレポートしていきたいと思います。

 

登城口

駐車場は匠宿の駐車場を利用させてもらいました。尚、この登城口の場所がとてもわかりにくいので、Googleマップで「丸子城登山口」で検索しましょう。

 

丸子城説明看板

登城口から15分ほど山道を登っていくと、こちらの説明看板がありました。説明文の部分をアップで見てみましょう↓

 

 

なるほど、現在の丸子城の姿は武田氏の大規模な改修によるものらしい…。が、その後徳川氏の支配も約8年ほどある事から、全てが武田流というわけではなく、徳川による改修も当然あると思われるため、その見極めはとても難しい…。

 

外曲輪

先程の案内看板から西へと進んで行くと、最初に到達するのがこちらの外曲輪となります。

 

 

外曲輪の西端に虎口があり、この先に馬出と三日月堀があります。

 

三日月堀

外曲輪西の虎口を抜けると、いきなりこちらの三日月堀が現れ、思わず声がでます「

おぉ~!凄っ!」写真ではシダの葉が生い茂っていて見にくいですが、肉眼でははっきりとその姿を認識できるので、是非とも現地に足を運び、肉眼でご覧になってください。

 

場所は縄張図の①となります。先程の場所から少し移動して、東側から撮ってみました。(草が生えてなければ相当なインパクトがある遺構です)

 

北曲輪

東曲輪を経由してそのまま西へと進み、北曲輪へと進みます。この間、北側と南側は鋭い切岸が展開しているので、大人しく道なりに進みました。(三日月堀の南側にある竪堀群を見に行ったのですが、不明瞭で写真に上手く撮れませんでした)

 

 

この北曲輪の北側に土塁がありました。

 

北曲輪・北側の堀切

場所は縄張図の②となります。北曲輪の北に小さな尾根があり、その尾根と北曲輪とを隔てる堀切がこちら↑。

 

西側の横堀

北曲輪の北側から二の丸西端まで続く長い横堀がこちら↑。間違いなくここ丸子城においての見所ポイントのひとつで、100mほど続くこの横堀は必見です!

 

 

この横堀は決して途切れることなく、西側へと続いて行きます。山城でこんなに長い横堀は初めて見ました、感動と興奮で鼻息が荒くなります。

 

クランク形状の土橋

場所は縄張図の③となります。ここ丸子城で一番気になった遺構がこちら↑。この城跡の中でこの部分だけが、何故かこの様な「クランク形状を伴う土橋」となっている事です。凄く気になったので反対側(南西)からも見てみます↓

 

 

何故こうなるのか?どういう意図でこのような構造にしたのか?分かる方がいたら誰か教えてください。この土橋状の遺構の南西に竪堀があったので見てみます↓

 

 

縄張図では凄く小さな竪堀として描かれていますが、普通にそれなりの規模の竪堀が斜面を下っていました。この竪堀の更に西側にこの城で一番の長さを誇る竪堀があったので見てみます↓

 

長大竪堀

本曲輪の西側を出曲輪(馬出)が守る形の縄張ですが、その馬出の三日月堀から麓の方までこの竪堀は続いています。幅、深さ共にここ丸子城で一番の規模を誇るこの長大竪堀はまさに圧巻の一言で、ここまでやるか?と、思わず声が出てしまう程の竪堀でした。

 

この立派な竪堀は一体何処まで続いているのか?気になったので竪堀を下って行ったのですが、途中で諦めました。本当に麓まで続いていきそうな感じだったので…。

 

出曲輪(丸馬出)

先程の長大竪堀の付け根から出曲輪を見た写真がこちら↑。すでにこの時点で立派な三日月堀が目に入ります。もう少し進んで、三日月堀を西側から見てみます↓

 

 

綺麗に半円を描くような堀が見事です。経年劣化でかなり埋まってはいますが、その形状をよく留めています。更に進んで南西からも見てみます↓

 

 

いや~!素晴らしいですねっ!大手口の馬出と三日月堀が、草ボーボーだっただけに喜びもひとしお。この出曲輪(馬出)の南側に竪堀があったので見てみます↓

 

出曲輪南の竪堀

本曲輪の西側に腰曲輪があり、その腰曲輪と出曲輪間は堀切のようになっていますが、その堀切部分から南側へとそれなりの規模の竪堀が南側へと下っていきます。写真はその竪堀へと繋がる小さな竪堀(連絡通路?)となります。その堀切部分からの竪堀を早速見てみましょう↓

 

場所は縄張図の④となります。出曲輪と腰曲輪間は堀切状の構造となっており、堀切からそのまま竪堀として南側へと下っていきます。ここ丸子城は地形上、本曲輪の北西~南西辺りが緩斜面となり、防御をするうえでとても重要なポイントなだけに出曲輪とその両脇の竪堀で、この方面の敵を全て出曲輪で対処する構造になっています。ここ丸子城で一番の見所ポイントではないでしょうか。

 

本曲輪

綺麗に削平され、まあまあの広さの本曲輪です。この本曲輪の南側~東側は急斜面の切岸となっていて、その地形自体が防御施設の役割を果たしています。

 

本曲輪・北側土塁

本曲輪の北側~東側にこのような土塁がありました。

 

虎口

二の丸から本曲輪へと入る虎口となります。ここから二の丸へと進みますが、本曲輪と二の丸とを隔てる堀切が見事なので見てみましょう↓

 

本曲輪・二の丸間の堀切

廃城から数百年経過してもご覧の通り、しっかりとした造りで現在でもその形状を良くとどめています。

 

二の丸・北曲輪間の二重堀切

場所は縄張図の⑤となります。縄張図ではこの部分が二重堀切になっているのが、分かりにくいですが、現地で見れば一目瞭然です。

 

丸子城ログ

時間:1時間20分、じっくり隅から隅までみたら半日かかります。

距離:1.5km、比高もそこそこあり、険しい山城なので距離以上の疲労度。

標高・比高:標高は141m、登城口からの比高は109mでした。この短い距離で比高が109mなので、如何にこの丸子城が険しい天険の要害かお分かりになると思います。

 

広域

旧東海道を見下ろす天険の要害、まさに「ここしかないでしょ!」的な好立地にある山城である事が良く分かりますね。

丸子城

見所ポイント馬出三日月堀長大な横堀長大竪堀二重堀切、各曲輪群、等。

駐車場駿府の工房匠宿。

総評:現在の静岡県静岡市に位置し、駿府の西側の守りの要として、旧東海道を眼下に収める三角山の尾根上に築かれた山城。今川~武田~徳川と所有勢力が移り変わり、主に武田氏の影響が強いとされる遺構ですが、造りがとても技巧的でしっかりとしており、現在においてもその状態の良い遺構はとても見応えがあります。こんな素晴らしい遺構(馬出、三日月堀、横堀、竪堀)が遺る山城、” 丸子城 ” に週末あたり訪れてみてはいかがでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上総・大多喜城登城!続日本100名城 40城目 本田忠勝により改修された城~

大多喜城

別名:小田喜城。

所在地:〒298-0216 千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481 。

城地種類平山城

築城年代: 1521(大永2年)。

築城者:真里谷信清 。

主な関連施設千葉県立中央博物館大多喜城分館、大多喜町観光協会

文化財史跡区分: 県指定史跡

大多喜城(模擬天守・復興天守

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2017年4月6日の「城の日」に財団法人日本城郭協会が続日本100名城を発表しました、千葉県からは ” 本佐倉城 " そしてここ” 大多喜城 ”が選ばれました。スタンプを押したうえで登城数をカウントしたいと思います。今回の ” 大多喜城 ”をもって続日本100名城、登城40城目とします。

2022.3.21.登城。

大多喜城概要:

場所は現在の千葉県夷隅郡大多喜町になります。真里谷信清が1521年(大永2年)に築いた小田喜城を元に、本田忠勝が改修したと云われているのが、ここ大多喜城とされています。その後多くの城主が入れ替わり、約280年余り続いた大多喜藩大多喜城1871年(明治3年)に廃城となりました。

駐車場

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こちらの大多喜城下駐車場は今まで有料でした。ですが、千葉県立中央博物館大多喜城分館が施設改修工事で休館しているため、令和4年2月1日より当分の間無料となっています。

 

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駐車場の一角に何やら祀ってあるので近寄ってみました。何でも大多喜城の石垣の石らしい…。

 

大多喜城説明看板

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施設改修工事で、模擬天守内部がどの様に変更されるのかとても楽しみですね。ここで駐車場から東へと進み本丸を目指します↓

 

出曲輪の城塁

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駐車場から東へと進んで行くと、本丸の西側に細長く小さな突き出た曲輪があります。その城塁がこちら↑。

 

 

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やけに堆積物が多いな…。道路建設などで色々と手が加えられているのでしょうか?

 

 

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こちらの公園は「二の丸公園」と名が付けられています。

 

何かある!

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出曲輪と本丸は堀切で仕切られていて、本丸の西端から南側を覗き込むとご覧の通り、横堀と土塁らしき物が見えます。残念ですが、現時点では立入禁止となっているので確認できません。

 

本丸(模擬天守・復興天守

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大多喜城には天守となる " 御三階櫓 " があったとされていますが、1842年(天保13年)の火災で焼失しています。実はここ大多喜城天守に関しては諸説あり、天守が存在していれば現在の建物は復興天守(正確な復元には当たらないため)になり、また天守が無かった場合は模擬天守となります。

 

本丸の土塁跡

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こちら↑は本丸の南側にある、囲み土塁となります。本丸の西~東へと展開しています。

 

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パンフレットや資料には、こちらの土塁に関する記述が見当たらない。現存する土塁だとしたら貴重なものだと思うのですが…。

 

 

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ここで本丸を東へと進み、現在大多喜高校がある二の丸方面を本丸から見てみます↓

 

本丸から東(二の丸方面)を望む

f:id:Gorgon:20220417102459j:plain本丸の東、現在大多喜高校がある場所が二の丸で、ここに大井戸と移築された薬医門があります。大井戸が見えますね、近くに説明看板があったので見てみます↓

 

薬医門説明版

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1871年(明治3年)の廃城時にほとんどの建物類が取り壊されてしまったので、こちらの薬医門はとても貴重な建物となります。

 

大井戸説明版

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深さ20mに対してあの水の量は凄いですね!このあと実際に見に行きましたが、本当に井戸の上部まで水がありました。さっそく大井戸を見に行きます↓

 

大井戸

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往時、城内に三十数個もの井戸があったとされています。井戸はそんなに必要だったんでしょうか?必要だったんです、きっと…。

 

薬医門

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こちらが大多喜城唯一の現存する建物、「薬医門」となります。門の右手に説明看板があったので見てみます↓

 

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なるほど、一度解体して保存していた物を再び建造されたんですね。

 

 

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使用されている木材も年季が入っています。

 

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二の丸と三の丸の境目がこの辺りになると思います。(間違っていたらスミマセン)

 

大手門方面

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この方向(東)に大多喜駅があり、その近辺に大手門があったとされています。ここで本丸の南側に流れる夷隅川沿いに歩いて、本丸の西側まで行き、そこから駐車場へと帰る事にしました。

 

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本丸の南側はこのように現在は道路が走っているので、遺構はありません。写真左手には夷隅川が流れています。この道路沿いに夷隅川に関する面白い説明看板があったので見てみましょう↓

御禁止川

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むらさき色の鯉ですか…あまり美味そうな感じはしないですね。

 

 

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これが夷隅川となります、なかなかの水量と川幅となります。この先でこれまた面白いものを見つけたのでご紹介↓

 

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こちらの浄水場、名前が良いですね!これで大多喜城の散策は終了、このまま駐車場まで歩いて行き次の城へと向かいました。

 

スタンプ押印

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スタンプ設置場所:本来は大多喜城分館(天守)、改修工事中は大多喜観光協会

スタンプの状態: " 普通 " 陰影が少しかすんでいます。

スタンプの印影:言わずもがな。

 

御城印

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御城印販売場所大多喜町観光協会

御城印のサイズ:通常サイズ。

御城印の値段¥:一枚300円。

デザイン概要:

上部に本田家の家紋(立葵)、下部に明治維新まで城主であった大河内松平氏の家紋(三つ扇)を配しています。真ん中にある梵字は、「地蔵菩薩」「阿弥陀如来」「聖観音菩薩」をそれぞれ右から梵字として配しているそうです。因みに本田忠勝が所持していた名槍、" 蜻蛉切 " の槍先にはこの梵字が刻まれていました。と、御城印の説明紙に書いてありました。

上総・大多喜城

見所ポイント:本丸、二の丸、大井戸、薬医門、大多喜水道跡、土塁、堀、等。

駐車場大多喜城下駐車場。

総評:1590年(天正18年)に秀吉が小田原を平定すると、徳川家康が関東へと移されます。この時夷隅郡が本田忠勝に与えられ、忠勝が小田喜城を改修して現在の大多喜城を完成させます。現在ではほどんど遺構は遺っていませんが、往時の曲輪や堀の名残を見ることはできます。時間がある方は、三の丸やその周辺の城下などを散策してみるのも良いと思います、こんな本田忠勝が愛したであろう大多喜城と城下町へ、週末あたり訪れてはいかがでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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