みやじ の登城備忘録

2018.4月スタートの続日本100名城スタンプラリーをメインに活動をしています。お城の散策と同時に地元B級グルメも堪能します。


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滝山城攻城!続日本100名城19城目     リアルぽちっと滝山城(城歩きイベント編) 其の一

滝山城

別名: なし

所在地: 〒192-0002  東京都八王子市高月町(都立滝山公園)

城地種類: 山城(平山城

築城年代: 大永元年(1521)

築城者: 大石定重

主な関連施設: 八王子加住市民センター(スタンプ)道の駅八王子(スタンプ)

文化財史跡区分: 国指定史跡

小宮曲輪の堀

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2017年4月6日の「城の日」に財団法人日本城郭協会が続日本100名城

発表しました。東京都からは品川台場滝山城が選ばれました。

スタンプを押したうえで登城数をカウントしたいと思います、今回の

滝山城をもって登城 19城目とします。

今回は、ナワバリストの " 西俣総生 " 先生と城郭ライターの " いなもと かおり "

さんが企画する城歩きイベントに参加してきたのでその様子を元にして

滝山城攻城をレポートしていきたいと思います。

滝山城概要:

もともと滝山城は大永元年(1521)に山内上杉氏重臣大石定重が築いたとされています。天文15年(1546)の河越城の戦いで北条氏が勝つと、大石定久は北条氏康の息子氏照を娘婿に迎え永禄元年(1558)ごろから滝山城の本格的な改修に着手しました。永禄12年(1569)に甲斐の武田信玄が実に2万もの軍勢でここ滝山城に侵攻したときは、別働隊の攻撃により三の丸が陥落、落城寸前のところまで攻め込まれましたが、滝山城の守備兵2000が奮闘し落城を免れます。その後氏照は八王子城を築きここ滝山城は廃城となりました。

勉強会

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まずこちらの八王子市加住市民センターの2階和室で予習の勉強会をし、

昼食をとったあと滝山城へと進軍を開始しました。

尚、スタンプはここが1番状態が良いとの事なのでこちらで押す事を

お勧めします。

 

滝山観光駐車場

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 今回はこちらの登城口から登りました、場所的には「滝山城址下

バス停の脇から天野坂を通り小宮曲輪へと行くルートです。

尚、この左手には「滝山観光駐車場」という無料の城址専用P(約30台)

があるので車で来ても大丈夫です。

 

小宮曲輪の空堀&高土塁

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バス停から歩く事数分で、早くもこちらの見所スポットが現れます。

この堀の奥は私有地となっているため、立ち入る事はできません。

近くに説明看板があったので見てみましょう。

 

 

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ここ滝山城多摩川がつくりだした河岸段丘上に位置し、標高は約160m

となっています。よってガチガチの山城というよりも平山城

いったほうが適切かもしれません。

 

三の丸横堀

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左手の土塁上が三の丸となっており、その周りをこのように横堀が展開

する構造となっています。丘陵地で比高もあまりない地形なので自然と

横堀が主体の防御構造となっています。

 

千畳敷へ移動

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三の丸脇を通り、千畳敷へと移動を開始するとき写真を撮るとフレーム

の中に西俣先生の姿が……。

心の中でつぶやきました「ワイルド先生…。

 

コの字型土橋

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ここ滝山城は標高も比高も低いため、どうしても高さを生かした防御

構造にできない為、このように必要以上に横矢をかけ、効率よく敵を

迎撃できるように緻密に計算されて造られているように感じます。

 

コの字型を再現

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現在ある道は公園として整備したとき、歩きやすいように作られた物で

「本来はこんな感じだったんですよ」と、紐を使って説明していただき

ました。

 

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少し離れて見てみます、それにしてもそこらじゅうに横堀が張り巡ら

されていて、まさに横堀のオンパレード状態です。

 

千畳敷

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 この日は2019.1.27.真冬という事もあり空が青く、空気が澄みきって

いて実に気持ちが良かったのを覚えています。(でも凄く寒かった)

 

角馬出の説明看板

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ここ滝山城は二の丸が防衛上の最重要地点であったかのような造りに

なっており、二の丸を中心に虎口先に馬出を3カ所(西馬出・南馬出・

東馬出)設け、その3カ所全てが角馬出となっています。

 

西馬出

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こちらが現在の西角馬出です、現在はこんなのぺっとした感じですが

当時は深く鋭角に掘りこまれ、 まさに " えぐい感じ " だった事でしょう。

 

 

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横から見ると、こんな感じです。

ここで一人隊列を離れ、すぐ近くの二の丸を囲む横堀を見に行きます。

 

二の丸城塁と横堀

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先程の西角馬出から南側へ移動すると、二の丸を守る城塁と横堀を見る

事ができます。

さすがは、ここ滝山城の重要拠点なだけあり切岸の高さが他の曲輪より

高く造られており、防御に力を入れていることが見てとれます。

満足したので再び角馬出の場所へと戻ります。

 

角馬出攻防戦(模擬戦)

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今回の城歩きイベントの特徴の1つでもある実際に攻防戦をやってみて、

攻め手と守り手を体験するという企画となります。

 

戦闘開始!

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角馬出での攻防戦が始まろうとしている時、参加者の2人(赤い丸の人)

がフライングで馬出の真下にいました。(その時のやり取りがこちら↓)

いなもとさん:「そこからはダメです、スタート地点へ行って下さい」

参加者2名:「…。」

いなもとさん:「〇?☆■Д∥И!おっりゃっ~(-_-メ)!

自分:「あっ、あぶなっ!」(この時、思わずシャッターを切る)

この後、時速140kmはあろうかと思われる剛速球が参加者2名を襲い……

ませんでした。(ボールはあさっての方向へ飛んでいきました)

この光景を見た自分は思いました。

なんて心の優しい人なんだ!ワザと外すなんてっ!

そして同時にこうも思いました。

この人を怒らせないようにしよう、言う事を聞こう」と…。

 

二の丸横堀

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滝山城でもっとも防御に力を入れているであろう、二の丸の横堀です。

 

 

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この高土塁の高さ、角度、横堀の深さ!現在でもこれだけ凄いので当時

はどんだけ凄かった事か!とにかく土木量がハンパありません。

 

二の丸説明看板

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確かに、南馬出の前方に大馬出が重なる重馬出」となっていて、その

防御力の高さ、二の丸の重要性がわかる構造となっています。

 

大馬出の堀

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位置的には大馬出の南側となります、もはや凄すぎて言葉になりません。

地元のボランティアの方々が、下刈りをして下さっているのでこの様に

キレイになっており、歩きやすくなっています。

地元ボランティアの方々へ、「本当にありがとう御座います。」

 

 

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見て下さい、下刈りをする事によって土塁の形状がとても良く分かる

ようになっています。

地元ボランティアの方々に足を向けて寝られません!

 

大馬出を上から

 

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大馬出というだけあり、とても大きい馬出(曲輪)なので土塁の上から

広角レンズで撮ってもご覧のとおり、一部しか入りません。

 

 

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こちらは大馬出の南東部分の堀底となります、この右側はゴルフ場では

ありません、きれいに下刈りされた城跡(大池跡)です。

 

 

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大馬出東側と大池跡とを隔てる土塁となります、ここを歩いて北側へ

と行くと東馬出と二の丸へと行く事ができます。

でもここは一旦南下し、大池(小)と竪堀、畝掘を見に行きます。

 

竪堀

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大池の南側にある小さいほうの池跡、その西側の斜面にこちらの竪堀

があり、さらにその登りきった先には畝掘りがあるとの事。

 

大池跡南側

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写真では分かりにくいと思いますが、当時ここには水が溜められ池に

なっていました。

西股先生いわく、馬などの飲み水に使用したり水堀の役目も果たして

いたのではないか?との事でした。

 

大池北側土塁

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先程の場所から北側へと移動すると、こちらの大池跡北側の土塁へと

きます、それにしてもこの土木量はマジハンパない感じです。

北条の民たちは、「どんだけ土いじりが好きなんだよ」と思ってしまい

ます。

今回はここまで其の二へつづく。

滝山城

見所ポイント:本丸、中の丸、二の丸、三の丸、横堀、土塁、馬出、虎口等。

駐車場:滝山観光駐車場(城址専用無料P)約30台駐車可能。

中間報告:永禄12年(1569)に武田信玄が2万もの大軍で侵攻したが、滝山城はこれを2000の兵で撃退したとあります。これだけでもわくわく感がとまらないのに、広大な面積を有する山城でとにかく横堀や土塁の土木量が半端無いと聞けば、否が応にも期待が高まります。実際に訪れてみると、話に聞いていた以上に見事な横堀と土塁の数々に感動と興奮を抑える事ができませんでした。そして今回はいつもの少数(1人)での城攻めではなく、実に3万の大軍(30人位)での城攻めなので自分が頑張らなくても誰かがやってくれるという実に楽勝ムードでの攻城となりました。大軍で城を攻めるのが、こんなにも気楽で楽しいものなのかという事を体験することができました。

其の二では二の丸から中の丸へ、そして本丸へと紹介していきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

美濃金山城登城!続日本100名城18城目    破城の痕跡からみる織豊系城郭の姿~其の二(完)

美濃金山城

別名: 烏峰城(うほう じょう)兼山城

所在地: 〒505-0130  岐阜県可児市兼山

城地種類: 山城

築城年代: 天文6年(1537)

築城者: 斉藤妙春(さいとう みょうしゅん)

主な関連施設可児市観光交流館(スタンプ設置場所)

文化財史跡区分: 国指定史跡

眺望

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2017年4月6日の「城の日」に財団法人日本城郭協会が続100名城を発表

しました。岐阜県からは苗木城郡上八幡城城美濃金山城大垣城

選ばれました。スタンプを押したうえで登城数をカウントしたいと思い

ます、今回の岐阜県の旅最後は美濃金山城として、登城 18城目とします。

美濃金山城概要:

天文6年(1537)、兼山の地に斉藤妙春(正義)という人が烏峰城という名の城を築いたのがはじまりとされています。妙春がライバルに謀殺されると永禄8年(1565)には織田信長の家臣である森可成が城主となり、烏峰城は金山城へと名前を変更しました。

慶長5年(1600)に犬山城主であった石川光吉が城主となりましたが、その翌年に建物等は解体され、城は破却となりました。

 

枡形虎口

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大手虎口として機能していたであろう、この虎口はここ金山城において

特に強固な造りとなっていたはずです。

ですが、石垣の高さがやけに低いのでもしかしたら破城の際に破壊され

てしまったのかもしれません。(詳細については不明)

 

現在地

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この枡形虎口の現在位置がこちらとなります、この様な看板はとても

見やすく、分かり易くて助かります。

 

 

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 近くの案内看板に " 枡形虎口の想像図 " なるものがあったので一枚。

「なるほど、こんな感じの虎口だったんだぁ~」と、少し興奮。

 

南腰曲輪跡

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本丸南側に位置するこちらの南腰曲輪は、周囲を石垣と切岸で囲い

曲輪の防御としていました。

礎石も発見されたとの事で、往時ここには何らかの建物があった事が

うかがえます。

 

 

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南腰曲輪からの景色となります、かなりの逆光具合に苦戦。

 

天守台西南隅石

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近くの説明看板には、「隅石が算木積となっており…」と、書かれて

いましたが、個人的にはいまいちよく分かりませんでした。

 

本丸高土塁から

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ここ本丸の周囲は当時、全方位を石垣で囲い城の防御としていました。

破城の際に石垣は破壊され、現在ではその一部が残るにとどまってい

ます。

 

本丸虎口

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本丸の虎口となります、やはりここも石垣が低い感じですね。

近くに説明看板があるので、見てみましょう。

 

 

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なるほど、当時ここは石垣や建物等で強固な虎口としていたんですね。

 

本丸(北西)からの眺望

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標高277mからの景色となります、往時においては主郭周辺の木々は

伐採されていたはずなので本丸から城下が良く見渡せたはずです。

 

現在位置

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ここにはかつて2重2階層塔型の天守と、小天守が存在していたと

されています。

 

本丸跡

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ここ本丸からは建物の礎石や茶碗等、色々な物が出土していて当時の

城の状態や人々の生活がどうであったのかを知るうえで貴重な資料と

なっています。

 

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なかなか立派な感じです。

 

本丸説明看板

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昭和36年(1961)に行われた犬山城天守の解体修理の際に調査した結果

看板に書いてあるような資材の再利用の痕跡は発見されなかったため、

現在ではこの説は否定されているとの事。

 

本丸御殿跡の礎石

 

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御殿や櫓など多くの建物群が本丸に建っていた事を証明する礎石と

なっています。

 

 

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実際にはこんな感じとなります。

本丸の敷地面積の半分位は建物が建っていた感じでしょうか。

 

東腰曲輪跡

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ここには井戸跡があったとパンフレットには書いてあります。

ここでも瓦や礎石が出土しているそうです。

 

 

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このように現在でも本丸付近には石垣の跡が多く残っているので、

当時の本丸の様子を知るうえで、とても貴重な遺構となっています。

 

搦手門礎石

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 ここを下っていくと、細野左近という武将の屋敷があったとされる場所

に行けるのですが、パンフレットには通行禁止のマークがあったので

行きませんでした。(2018.11月現在)

以上で美濃金山城の散策を終え、下城する事にしました。

 

昼食

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可児市ご当地グルメが何か分からなかったので、このソースかつ丼

カレーうどんのセット定食にしました。

スマホで撮ったらピンボケが酷かったので、この様にレタッチしました。

 

スタンプ押印

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スタンプ設置場所可児市観光交流館(08:00~22:00)

スタンプの状態: " 普通 "  続100スタンプ特有のフチにインクが付くタイプ。

スタンプの印影: 本丸にある建物の礎石跡が印影となります。

       (個人的には隅石が破壊された石垣の印影が良かったのですが…)

美濃金山城

見所ポイント:本丸、二の丸、三の丸、出丸、石垣、土塁、礎石跡等。

駐車場:出丸跡に城址専用駐車場アリ、(無料、20台)

総評:永禄8年(1565)に織田信長が家臣の森可成(もり よしのり)に城を与え、この城の名を金山城へと変更しました。ここからこの美濃金山城の本格的な拡張整備が行われ、近世山城へと大きく変貌をとげていきました。慶長6年(1601)に廃城となり、建物や石垣等は破壊されましたが、その破城の痕跡をよく残したまま現在までに至ります。織豊系城郭を構成する3要素とされている、石垣、瓦、礎石建物、がすべて揃っていた近世山城、美濃金山城に週末あたり訪れてはいかがでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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